アレハンドロ クシアノビッチ とは誰か

ペルーの働く子ども達とともに、人の尊厳や自身の権利について学ぶ場をつくり、子ども達が主体となって社会に参画する運動の根幹をつくってきた、アレハンドロ クシアノビッチ師について。


アレハンドロ クシアノビッチ ビジャラン
Alejandro Cussiánovich Villaran

1935年11月3日 リマ・アンコン生まれ

弱い立場の人に寄り添っていきたいという気持ちから1950年に神学校に入る。1958年に神学校を卒業してリマ市内のサレジオ修道会付属の学校で教師として働く。1961年26歳の時イギリスの大学に留学し哲学を学ぶ。1年後フランス・リヨンの高等神学校にうつり神学を学ぶ。同時にフランス国外から家事労働者として滞在していた女性たちの集まりを支援し、工場労働者の集まり(JOC・ホック /カトリック青年労働者同盟)にも参加していく。

欧州留学前に「解放の神学」を著したグスタボ・グティエレス・メリノ師と出会っている。帰国後1967年にはこのグティエレス師などと革新派司祭の運動体オニスONIS(社会情報分析機関)を組織し、農民共同体、労働組合、住民組織と連帯した運動を実践していく。

左:アレハンドロ クシアノビッチ師  右:グスタボ グィテレス師

(時代背景)
1968年8月にコロンビアのメデジンで開かれたラテンアメリカ司教会議は「制度化された暴力」を批判し、「広範かつ、大胆かつ、愁眉の、大いに革新的な変動」を訴えた。教会は貧者の状況に寄り添うべきだという提言はこのメデジン会議の数週間前ペルーで開催された集まりでグスタボ・グティエレスが「解放の神学」の中での提案だった。
1968年左翼軍事政権をクーデターによって成立させたベラスコ将軍の政権は主幹企業の国有化や農地改革を行って長く続いてきた寡頭支配政治の打破を画策した。

1969年9月から約一年アヤクチョ県ウアマンガの学校に、その後71年までチチカカ湖畔の街プーノの学校に教師として赴任する。山岳地方の生活経験は偏見と人種差別に包まれたリマで産まれ育ったアレハンドロにペルーのもつ多様性豊かさを再認識させた。

リマに戻ったアレハンドロは夜間学校の教師の場を得てそこで学ぶ地方から来ていた家事使用人の仕事をする女性たちとの交流を通じて彼女たちの意識化組織化を手助けする。同時にグティエレスから引き継いだペルーのホックの活動を支援・協働する。

1975年ベルムーデス将軍によるクーデターでベラスコ政権は崩壊した。
新政権は新自由主義を前提にしたIMFの指導下に入り寡頭支配に復帰したことで、労働者、貧困者の生活環境はすぐに逼迫していく。

1976年ホックの若い労働者たちからの発案をアレハンドロが手伝い、働く子どもたちが立ち上げたMANTOHC /マントック (キリスト教労働者の息子たちである働く子ども・青少年運動―Movimiento de Adolescentes y Niños Trabajadores Hijos de Obreros Cristianos)の活動が始まった。

マントックの集会で話すアレハンドロ

1980年5月17日民政移管の大統領選挙投票日にアヤクチョ県の村の投票箱を焼き払って活動を顕在化させたセンデロ・ルミノソはその後ほぼ20年にわたって「革命闘争」を国軍だけでなく国民に対しても暴力的に実行する。その結果センデロ、国軍双方で疑わしきは殺害する人権蹂躙が蔓延して国が荒廃していった。

マントックは「働くとは、親と共に日々貧困に立ち向かい、貧困による差別や排除と言う構造的暴力を受けながら尊厳を失うことなく闘い続ける姿」そのもので、子どもによる自己決定で運営されていく、運動体として出発した。

一方で特に児童教育実践者のアレハンドロは「子ども達のニーズに応じた教育カリキュラムの元で自発性に重きをおいた学校」、授業を作ることを実践していた。マントックの子ども達との話し合いを通して「働く子ども達に配慮した教育カリキュラム」を前提にした教室が1986年サン ファン デ ミラフローレスに開校した。生業としての労働、学校での学び、運動を通した社会活動がマントックの根幹になっていく。同時にマントックの関わる学校はペルー全国で7校にまで広がっていく。

アレハンドロは学校建設だけでなく教育者の養成を機関(IFEJANT/ 働く子ども・青少年のための教育者養成機関)を1992年に立ち上げ、働く子どもに寄り添った教師の養成を始める。その後ペルー教育省はIFEJANTが考案した働く子ども達を対象にしたプログラムをオルタナティブ教育の枠ぐみに取り入れている。

マントックの子ども達と

1996年いくつもの働く子ども達の運動体の連合としてMNNATSOP/ナソップ (Movimiento Nacional de NATs Ogganizacion del Peru-ペルーの働く子ども・青少年全国運動)が生まれラ米諸国の同じ運動体と連帯していく。

1999年INFANT-Nagayama Norio (Insutituto de Formacion de Adolecentee y Niños Trabajadore/as―働く子ども・青少年のための教育機関) がナソップ運動を支援し、子どもの諸権利を学び促進する機関として立ち上がる。日本の永山子ども基金*と連携をして子ども達への奨学金給付を実践している。

ナソップでのひとこま

子どもを「未来」の同義語とする認識が、結局子どもの権利主体としての社会参画を否定している。この認識と構造の解体が子ども達の主体性の獲得と社会参画に最重要だとアレハンドロは感じていた。

2005年アレハンドロは 子どもを取り巻く多様な生活環境に対する理論的解釈を文化人類学、心理学、教育学などを通して獲得すべく国立サンマルコス大学修士課程に教室を作った。新しい子どもに対する認識と社会的、政治的、文化的運動を子ども達とともに創造することを課題にする。ラ米7カ国で同様の教室が開設された。

2013年国立ビジャレアル大学から名誉博士号授与。
2013年ペルー教育省から教職員の最高の栄誉「Amauta」授与。
2016年国立サンマルコス大学から名誉博士号授与。

子ども主役主義を提言して子ども達に寄り添いながら新たな世界への地平を切り開き続けるアレハンドロ クシアノビッチ師は今年85歳になる。

参考文献:
『子どもと共に生きる/ペルーの「解放の神学」者が選んだ道』
アレハンドロ クシアノビッチ著 五十川大輔=編訳
現代企画室 2016年
(書評:週間読書人ウェブ

*永山子ども基金とは・・・
1997年8月1日に処刑された永山則夫さんは、死刑執行の直前「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、特にペルーの貧しい子どもたちに使ってほしい」と遺言を残しました。 「永山子ども基金」は彼の遺言を実行するために、死刑制度、貧困、少年犯罪、児童労働などの問題を多くの人と考えるためのトーク&コンサートを開催。永山則夫さんの印税約1千万円は、毎年ペルーの働く子どもたちに送り続けるとともに、教育プロジェクトや活動資金、また、チャリティコンサートの収益金も、奨学基金として活用されています。
永山子ども基金WEBページより)

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