アレハンドロ・クシアノビッチ師 メッセージ「本質への回帰」

新型コロナウイルスの世界的大流行(によるペルー政府の措置で)、全ての国民が分け隔てなく自宅待機となった。しかし皆が外出禁止となった今、大きな格差は解消されるどころか、ペルー人は社会・政治的に同等でないことがより鮮明になった。

「自宅待機」と言っても、豪邸で過ごす者もいれば、 働く子どもたちのように、一部屋しかない掘立小屋で、詰め込まれるように寝起きしなければならない者もいる。Villa Maria区やSan Jose Obrero学校の働く子どもたちの大半が、このような劣悪な住環境だけでなく、水不足による衛生問題や、子どもに与える食料の確保を巡って喧嘩する両親を見なければならない不安の中で暮らしている。

いつも地域や学校、PROMINNATSプロジェクトでの小さな働きで家計を助けていた子どもたちの重要性が改めて分かる一方で、(子どもの外出は禁止されている)今は、働く子どもたちも、両親(がいる場合だが)や母親が調達できるものか、何らかの社会プログラムに依存する状態となっている。

しかし悲劇一色というわけではない。働く子どもの中からは「家族全員が一緒に過ごすことは滅多になかった。父親とゆっくり話をできるのは初めてだ、彼は私たちの生活ぶりを何もしらなかった。」「今までは点数にしか注目していなかった両親に、宿題を手伝ってと頼んでいる。」「不安が大きすぎて、(親は)大変な思いをしている。」といった声が聞こえてくる。

 一体、このウイルスはどこからやって来たのだろうか。(外出禁止による)隔離状態は、人間は自己責任のもとで生きそれぞれ問題解決すべきという個人主義社会のシンボルではないだろうか?或いは貧しい者は、疫病で死ぬ危険があるときだけ、寛大な顔で政府が施す支援策を待っていなければならないのか?

「私たちは皆平等だ」「仕事があるのは、親切にも会社が仕事をくれるからだ」「露天商は国の経済を破壊する」などの一連の神話、「子どもの居場所は学校や家庭であり、働くべきではない」といった奴隷廃止論者の主張のすべては、今回の出来事で崩れ去った。確かなのは疫病が去った後、私たちは皆働きにでなければならないということだ。

働く子どもたちは今、「児童労働反対のグローバルマーチは、どのような見解か」「Telefonica社や同社の児童労働反対プログラムは何をしているのだろうか」と問いかけている。San Jose Obando学校の生徒の殆どは移民である。首都で成功する夢が失われ、飢えや感染を避けるため、歩いてでも帰郷することを決意したHuancavelica県出身者はその一例にすぎない。

問題の本質は、新自由主義モデルがどのような「人間」を産み出したかという点だ。今必要とされるのは、原点への回帰、「人間」を中心に据えることである。倫理や政治の軸を、富の蓄積、金、野心ではなく、人間性とすることである。これは、新型コロナ流行前の状態に戻ることを意味するのでも、経済モデルを損なうことなく経済再生を行えるのだという偽りを信じることでもない。まして、農民と大地が育てた農作物をペルー国民が日々の糧とする中で、前エネルギー鉱山大臣が「経済再生の要は鉱業だ」と発言することは、大きな的外れだ。

ロックダウンにより足止めされた人々に対する「人道的航空便」、「人道的バス」などのフレーズが聞かれるが、これらは一時的な措置にすぎない。今必要なのは、人類の転換期に参加し協力することだ。地球上に残る全ての人間性、尊厳、地球の全ての生命への愛を思考の原点として、「全ての生命に属する地球で、今後も共存していくことができるだろうか」との問いに答えなければならない。

新型コロナ大流行への戦線を築いているのは、世界の人々に未だ残っている人間性である。この人間性こそが、先の問いに答えることは倫理的・政治的に可能だということを示す希望である。

働く子ども達は、この冒険の一部であり、これからも参加しつづけることを望んでいる。

               2020年4月17日  リマ ペルー

               アレハンドロ クシアノビッチ ビジャラン

                            村井裕子/翻訳

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