ペルーの働く子どもたちの生活〜ホビータの場合〜2009年4月

ホビータ・マユミ・ベナナノ(12歳)

国営放送で時折流される日本のドラマが大好きだった母親は、ドラマの登場人物の名前を自分の娘たちにもつけたのだ。

ホビータは5人兄弟の末っ子。現在は、母親と3人の兄弟(二女のスミカを除く)と共に暮らしている。
長女は、15歳の時に親戚の叔母をつたってリマに移住し、住み込みの家政婦として働きはじめた。プカルパの生活では食べ物に困ることはなかったが、現金収入を得ることが困難なこと、リマの生活に馴染んだ長女がリマで一緒に暮らそうと提案してきたこともあって、3年前に家族揃って移住することになった。

ホビータの家族は 首都リマの北東約850㎞に位置する、アマゾン地帯のウカジャリ県プカルパの出身。母親は、15歳の時に最初の子どもを出産した。約300㎡の小さな畑で、キャッサバ、バナナ、空豆、フリホール豆などを栽培しては自家消費に充て、細々と暮らしていた。

現在、家族はリマ東部の低所得者居住区の一つである、アマソナス地区で、ベニヤでできた簡素な作りの家を建てて暮らしている。この地区の住民のほとんどは、アマゾン地方出身者であり、現在約50世帯が暮らしている。
ホビータの父親と母親は6年前に別居したため、生計は母親と子どもたちの稼ぎのみで成り立っている。

「ホビータは本当に私のことをよく助けてくれますよ。この子は働くことも好きだけど、やっぱり勉強もしたいといっています。けれど、私にはほとんど稼ぎがありませんから、教科書やノート、制服なんかも買ってあげられないし・・・。この子ももう大きくなったから、やっぱりそういうことを恥ずかしく感じているんですよ。けれど、いつかお金が入るようになったらそういったものもちゃんと買い揃えてあげたいと思っています。」

母親は3ヶ月前に盲腸を患い手術を受けたが、術後も痛みが治まらず、いまだ仕事に出かけることができない。最近知り合った男性が、時折、米や油などをもってきてくれるが暮らし向きは決して楽ではない。

ホビータは今12歳。学校へは小学2年生までしか通っていない。出生地のプカルパで小学校に入学したのは9歳の時で、プカルパで1年、リマで1年それぞれ学校に通ったという。教科書や制服が買えなかったため、学校へ行くのをあきらめた。ホビータの兄弟も皆、それぞれの理由で学業を途中で断念している。

学業を断念した後、ホビータは街の公設市場で母親と共にフルーツを売り歩いていたが、ある日、近所のおばさんからアレハンドロ・クシャノビッチ学校の存在を聞き、再び学校へ通いたいと思うようになった。

「働くことも好きだしお母さんのお手伝いも好きだけど、やっぱりちゃんと勉強したい。」

アレハンドロ・クシャノビッチ学校では、小学3年生~6年生にあたる高学年クラスに在籍しているがホビータだが、今まで字を充分に学ぶ機会がなかったため、時折低学年クラスにも参加し、読み書きを習っている。最近、自分で読み書きができるようになったことがとても嬉しいと、彼女は語る。

ホビータは、朝6時に起床し身支度を済ませた後、7時過ぎには学校へ出掛ける。午後1時頃には自宅へ帰り、昼食をとり皿洗い、部屋の掃除、洗濯など母親の仕事を手伝った後、宿題を済ませたり本を読んだりするという。

ペルーでは、公衆電話から携帯電話にかけると通話料が高くつくという理由から、街角に携帯電話を数台持って立ち、客に貸しては通話料をとるという商売に携わる人達がいる。ホビータは、ごく最近まで、街に出て毎日この仕事に携わっていたが、今は週に数度の割合で働いている。

ある日、ホビータが仕事に出かけるというので同行した。仕事場となる病院の前に到着すると、そこには年配の男性が待っており、その男性は仕事用のチョッキと携帯電話をホビータに手渡した。

後に、携帯電話を手渡したこの男性はホビータの父親であるということが分かった。父親は現在一人で暮らしており、妻、つまりはホビータの母親が男を作ってしまったために、自分はもう家に戻れないのだということ、必要なものも十分に買えない子どもたちを不憫におもって、自分の仕事を手伝わせて小遣いを与えていることなどを語った。(1ソル = 32円 2009年4月時点)

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