Comenzar a mis dias en Aqui. / 「ここ」での生活の、始まり。
いよいよVillaでの生活の幕開け!!
…とはいうものの、最初の3~4日程は、時差ボケと常に戦っていました…。
地球でいうと日本の大体裏側に位置するペルー。東京とペルーの首都リマの時差は約14時間で、日本での生活リズムで考えるとほぼ昼夜逆転となるわけです。
また、気候も日本と逆転するペルー。やっと暖かくなり始めた日本を飛び出しやってきた地は、残暑の残る4月初頭、しかもこの年は異常気象であることが多かったようで、まだまだ暑い日が続いていました。現地の方たちがTシャツ短パンにビーサンの中、私は長そで長ズボンにゴツいトレッキングシューズ。頭がボーっとしてくるのも無理はありません。
到着して一夜明け、Villaに移動した日は、緊張が私の体を支えてくれているようなものでした。
昼過ぎのリマからVillaへの移動は、義井豊さんにご足労いただきました。車窓から見る景色が、近代的なビルやショッピングモール群から、土色の似たような建物の連なりに変わり、土ぼこりが激しくなってゆけばゆくほど、不安と期待が入り混じる不思議な高揚が、私の中で渦巻いているのを感じました。
だんだんと、記憶の中で在り続けていた懐かしい街並みが目に移ろいゆき、遂に、一度訪れた“あの”建物の前で車が止まった時は、それだけでもう感動で胸のあたりがじんじんとしていました。3年前にひと時を過ごした、ArenaのTeatro(劇場施設)に到着です。
まずは、ホストマザーでありArenaの代表でもあるAna Sofiaさん(以降Ana)にご挨拶に伺いました。以前会った時と変わらず、明るくあたたかい笑顔で迎えてくれたAnaは、彼女がご家族と住まうお家の奥まった一角にあるゲストルームへ、私を案内してくれました。3カ月間、Anaご一家と寝食をともに、私はここで暮らすのです。
Arenaは、その特異で興味深い活動から、国内外からボランティアや技術提供を希望する人々が集まります。共にホームステイ、ではありませんでしたが、私の滞在中も北米出身の同年代の女の子が、週に1~2回程度、ボランティアとしてArenaで活動していました。また、時期によってはArena主催の大規模なフェスティバルやイベントが行われ、運営ボランティア希望者や、国内遠方ゲスト、国外ゲストがVillaにやってきます。
Teatroの内部を整備して宿泊スペースを設けたりもしますが、まず真っ先に滞在先となるのが、Anaのお宅のゲストルーム。外階段で行き来できる2階建で、1部屋に2段ベッドが2つあり、4人のドミトリー(相部屋)となっています。
室内には、テーブルが一つ、椅子が一つ、網棚が一つ、窓が一つ。私一人が滞在するのではさみしい感じがするかなと思いきや、とてもシンプルなのが逆に落ち着ける雰囲気。私が初めて足を踏み入れた日には、ちいさな花瓶に活けられたお花が1輪、机に飾られていました。それだけでとても嬉しかったものです。
部屋に自分のバックパックを下ろし、リビングで義井豊さんと一緒にコーヒーをいただきながら、Anaと義井豊さんが話す様子を、私なりに懸命に窺っていました。が、内容はほとんどわからず…。Anaに何か話しかけてもらっても、答えることはおろか、何を質問されたかもわからない始末。スペイン語の勉強不足を、会って数分で露呈してしまったのでありました…。
Anaはどう思ったでしょう、きっと内心唖然としたことでしょう。それでも、「私もスペイン語を教えるから、あなたも日本語を教えてね!」と声をかけてくれ、茶目っ気たっぷりに笑う彼女に、この後幾度となく、私はまるごと、今も過去も含めてまるごと、救ってもらうことになりました。その最初となった再会のひとときは、安心よりも焦りと懺悔の気持ちでいっぱいでした。
ホームステイさせていただくこととなったAna家は、旦那さんのArturo、12歳の息子くんSebastian、1歳半のかわい子ちゃんJuanitaの、4人家族。2階建て家屋の上の部分に住まい、1階にはArturoのお母様であるSenora Auroraが暮らしていました。AnaとArturoの二人はArenaを創設したメンバーで、現在は夫婦でArenaの代表を担っています。元々俳優同士だった二人は、片や総合演出家、片や看板女優としての顔も持っています。
息子のSebastianは、とても心やさしく、穏やかな少年でした。日本で12歳というと小学6年生ですが、日本でもなかなか彼のような穏やかさをもった12歳は多くないのではないでしょうか。
妹のJuanitaは内弁慶なやんちゃ娘!慣れた人、場所ではとにかく自由にやりたい放題(笑) 奔放なその姿が、かわいくてかわいくて…!!初日からすぐに、彼女は私を受け入れて、遊び相手として認めてくれました。このAna家族から、大きなおおきな学びや気づき、希望、ぬくもりのプレゼントをもらうことになろうとは、この時は想像もしていませんでした。
私が到着した4月頭は、ペルーでは祝日の連なるプチバケーションの時期でした。日本のゴールデンウィークのような感じですね。
Ana家族が親戚数人と一緒にビーチへ出かけるということで、Villaに到着して2日目で、私もご一緒させてもらい遊びに行くことになりました。
メンバーは、Ana家族、Anaのお姉さんのPatriciaさん(以降、Paty)、その娘のChioko、Arturoの親戚のCusy,その妹のYllari、そして私。
ArturoとAnaの友人で、個人でドライバー業を営んでいるCalrosの「Combi(ワゴン車の乗合バス)」を1日貸し切っていざ出発!ラテン音楽のクンビアが、車内に明るく響きます。
Villa含めたコスタ(海岸砂漠地帯)の町は、砂地(砂漠)の上につくられてきました。街からビーチへ向かって車を走らせると、10~15分ほどで窓の外には砂丘が広がってゆきます。
この時は道すがら『 Pachacamac(パチャカマック遺跡)』を通り過ぎてゆき、Anaや他の家族が私に遺跡のことや、“Pachamama(ケチュア語で「母なる大地」を意味するアンデス古代信仰の代表的な女神)”の話をしてくれたのですが…。
全く理解しておらず、「砂漠のことをPachacamacっていうのかな~?」と勝手に解釈しながら、曖昧に相槌をうっていました(汗) このPachacamacには後にArenaの仲間たちと再訪することになります。
そんなこんなで車を走らせること30分弱で、ビーチに到着しました。まさか海に行くことになろうとは全く思っていなかった私は、もちろん水着など持っていません。長そで長ズボンにトレッキングシューズの私を憐れみ、AnaやPatyが水着を貸そうとしてくれましたが、私のお尻のデカさに水着が対応できず断念。しかたがないので、暑さをしのぐためにキャミソールを借り、売店で買ったサンダルを履いて(このサンダルがペルー初の買い物になりました)、砂の上に敷いた敷物のマットに腰を下ろし、潮風にあたりながら皆が遊んでいるのをゆったり眺めていました。
が、しかし。 私はすっかり油断していました。日本と同じような感覚になってのんきに構えていました。渡航前に調べたはずなのに、すっかり、すっかり忘れていたのです。
こちらの日差しと紫外線が、半端じゃなくどギツイということを…!!
乾燥保護のためと思い一応塗った日焼け止めは、まったく効力を発揮せず、私の首後ろから背中と二の腕の後ろは、この後1週間強、低温火傷状態となったのでした…。(そして日本に戻ってきた現在も、まだうっすらと跡を残しています)
余談ですが。スペイン語で「ビーチ」のことを“playa(プラジャ)”と言いますが、ペルーの人々は“yapla(ジャプラ)”と言ったりするそうです。数あるスペイン語圏の中でも、「そんな風に言うのはペルーだけよぉ~!アハハ!」だそうな。日本で言う“ザギンでシースー”てなもんでしょうか。ペルーでビーチに行く際は、是非使ってみてください。きっと一笑いとれることでしょう。
帰りのCombiの中で、持っていた『旅の指さし会話帳 ペルー』を黙々と読んでいると、Yllariが隣に来て、1ページずつ、単語ひとつひとつの発音を、丁寧に教えてくれました。Sebastianと同じく12歳の彼女もまた、大人びたところのある穏やかな子でした。お姉さんのCusyが明るくお話し好きであるのと対照的でなんだか面白く(笑) 二人とも、初対面の私をすぐに受け入れてくれ、何かと気にかけてくれました。二人にもとても感謝しています。
この後、Cusyとは度々行動を共にすることや、語り合う機会があり、本当にたくさんの豊かな時間をもらいました。ちなみに二人の名前は、インカ帝国を興したとされる民族の言葉、ケチュア語からとられたものだそうで、それぞれスペイン語では“Cusy=alegria(喜び、楽しみ)”“Yllari=amanecer(夜明け、新たな始まり)”という意味。このケチュア語は、忘れません。
帰ってみんなで夕食を摂り、疲れと眠気で体が重くなってきた私は、早めに寝ることにしました。背中に痛みと熱を感じながらやっとシャワーを浴び、Anaにお休みなさいを言いに行くと、少し時間をつくって、リビングで話そうと言われました。
私の、ここでのボランティアとしての仕事についてでした。
つづく・・・
→『Gracias por Todos y Todas. 〜大好きな、大切な、こころの家族たちへ〜』③ 保育園での日々